飯田市長相手の損害賠償請求裁判の判決が昨日行われた。結果は章設計の敗訴であった。訴状提出が令和2年1月27日であることから、丸三年を費やしたことになるが、そこまで長くかかった原因は双方の弁護士の事情による。判決主文がまだ届いていないからして、敗訴の理由が分からなくもあるが、敗訴は有るとして控訴の準備も進めていた。
報道機関も何社かいたと思うが、南信州新聞からは取材を受けている。明日あたりに掲載されるかもしれないが、他の新聞社は今日にも載るか、載らないかも知れない。
控訴の準備を進めていたのは、負ける場合の要点を想定していたからで、おそらくとして判決主文もその要素であると思われる。控訴するには当然新たな証拠は必要となるが、それが出来なくて控訴はあり得ないと言うことにもなる。
控訴は決めているが、一審の判決を受け入れたとしても、私の目的(一般競争入札制度への返還)は達成していた。これを読者に理解してもらうのは困難かも知れないが、行政に対して同じような疑問を持たれる方は大いに気づいていただけるのではないか。
一審は公開停止とされた。それは経験のない驚きであり、そしてある種のジレンマを抱いたのだが、それが飯田市行政への不正の是正につながらないとした危機感でもあった。当然としてブログにも裁判の内容が書き出せないし、公開停止がいかなるものかも理解出来ることではなかった。
そんな状況の中で、かぶちゃん農園詐欺犯罪が大きくクローズアップされたのだが、その詐欺犯罪の中心が飯田市にあるかぶちゃん農園本社が舞台であることに驚くとともに、牧野光郎市長と佐藤健副市長の関与が聞こえてきてもいた。火のないところに何とかと言うが、その火を消すのが議員らであることにまたも驚いた。「なぜ責任追及しないのだ?」、警視庁の家宅捜査が行われた。鏑木社長は自殺した。これほどのスキャンダルは無いことに、報道機関も沈黙のままであった。
地域計画課と綿半、それに飯伊設計監理協会(設計事務所協会)との官製談合を県警に告発するに、そして捜査二課が捜査を始めるに、何事もそこまでであって進展しない。そこに何かの違和感を覚えれば、社会のひずみに落ち込んでいる自分が居た。令和5年1月21日
高裁に公開停止はない
飯田市の設計料の支払いを求めての裁判であるに、履行した部分の請求であるに、それが敗訴であれば不履行が理由であろう。実際に勝訴したとしても、わずかな金額になるのはいがめないが、訴えなければ飯田市の暴走を食い止める手段はない。何が暴走であったのかは、35年以上も続いた指名入札制度である。指名競争入札は談合の温床であって、喜ぶものは力がある業者だけだ。業者が何故喜ぶか? それは、落札比率の98%~99%にあることだが、これが35年以上も長く続いたことに恐れをなす。これを許してきた歴代市長の大義名分は地産地消であると思われるが、実際のところそれで利益を得てきたのは建設業界だけではないが、結果が市民の負担となるを良しとした議員には驚く以外言葉もない。まあ、この様な事はどこにでもあると言うが、県が20年も前から一般競争入札に切り替えていることや、県内の市も県に倣えであって、飯田市だけがそれに従わない異常性があった。その異常性の最も大きな原因が、綿半という商社にあるのだが、「毎年寄付をするのだから当たり前だ」を発した伊賀良地区代表の新井信一郎議員のように、他の議員も同じドブネズミであるからして、この様な不正が続いたのであろう。飯田荘の設計入札において、熊谷議員は裏事情を調べ、そこに手を付けると覚悟したようだが、余りの四面楚歌に恐れをになし、聖域の怖さを知らされたようだ。しかし私は手を付けた。飯田荘の設計を落札すれば、おのずとその裏事情が見えてくると察したのである。
まず、長く飯田市の指名から外されていた章設計が、ある日突然に入札参加の通知が来た。それが飯田荘の設計入札であった。大きい、1級が一人の章設計に来る仕事ではない。すでにその時点で疑いを持ったのだ。落札から二日後、熊谷議員は突然に章設計に来た。まあ、章設計の社長から市会議員に成ったから、顧問として席は有ったが、「あんなに安くとったのにびっくりした」と、2500万円ある設計料を876万円で落札したことに驚いていた。そして数日後に顔を出せば、「基本計画図を藤本設計が書いている」「藤本設計は1級が一人しかいないが2級が一人いることで、市の指名基準を変えたようだ」として、章設計が使命には入れた理由を説明した。そして、「木下建設部長と設計入札の改革を進めていた」と話し出した。令和5年1月23日
綿半と鈴木設計
平成2年、飯田信用金庫の牛山理事長は、息子が勤める綿半鋼機に、無利子で10億円を融資した。そして特別なお願いをした。「飯田市の指定金融機関に紹介せよ」と、綿半は田中秀典市長に取り持ち、そして飯田信用金庫は、市庁舎内にある八十二銀行の横に窓口を開いたのである。こんな大きな犯罪を県警はなぜ見過ごしたのか? それは長野県警の姿勢にある。
社会とはこんなものである。今の世の中、これが悪いとの感覚がすでにないのだ。この様な事が表に出たとしても、それこそどこにでもあるとされ、下手をすればどこが悪いんだ? であろう。10億円の無利子融資は綿半の課長の話であるが、牛山係長が金の力で出世するをねたむ内部事情として世間には受け止められた。ここで問題とすべきは、市長まで動かす綿半の力であろう。具体的にどのように作用したのかは、綿半は社員を市建築課の職員として送り込んでおり、一時は建築工事の入札にまで指名されていた。商社である綿半が建築工事の入札に指名される? こんなバカなことが当たり前のように行われていたのだ。
材料指定
今回の飯田荘計画案(建築課は基本設計だと言う)にも当然のごとく、綿半が扱う建築資材が指定されていた。それを最も顕著に表していたのが鉄骨造である。木造で出来る建築物、木造を推奨している飯田市であるが、鉄骨資材を扱う商社は綿半しかない。木造よりはるかに高価になる構造を、何の根拠もないのに鉄骨造にした。「木造にしましょう」この提案に、木村理子係長がキレたのである。(この辺りは後日に)
綿半が何故毎年寄付をするのか? それは見返り以外何もないが、市長選挙や議員選挙に働く綿半の選挙協力がある。そこが悪いとは言えないが、そこで市長や議員らに作用が出れば、全くにふざけた話ではないか。材料指定での売り上げは大きく、これこそが官製談合の根本にあるに、それを後押しするのが市長であれば、とてつもない犯罪になるは必至であろう。令和5年1月26日
虎の尾を踏み続けた章設計
材料指定をするには設計事務所の協力無くして行えないことだ。だからして、設計事務所協会との官製談合が始まったのである。その始まりは古く、それは昭和46年の鈴木設計と飯田市建築課長(飯島係長)の逮捕から始まっている。私がこの世界に入って間もないころであるが、それは衝撃的な事件であった。鈴木設計が建築課長(係長時)に賄賂を贈ったのである。大きな仕事はすべて鈴木設計であったころの話だが、この鈴木設計を救おうとした飯田市は、設計事務所協会員しか指名し無くした。そして、落札者は設計事務所協会で決めろと言うわけだ。
当時の私は小平設計事務所に勤めていたが、小平さんは不正はしないが設計事務所協会員であるからして、談合には参加していた。イニシアチブは当然鈴木設計である。談合の会場はいつも桂設計とされており、婿様(落札者)でなければ、私も代理で出席したことがあった。小平設計に順番が回るのは10回に一回くらいであれば多い方で、仕事が重なれば辞退もあった。なぜか、設計事務所協会の結束は固く、ついには長野県の仕事も談合となっていた。そんな時代が当たり前であるがごとく、談合は平然と、そして必要悪とされていた。しかし、そこにもまた裏事情が存在していたのだ。清水重美市長時代の古き悪しき習慣であったが、松沢太郎(社会党)市長の時代になっても談合がまかり通ったのは、やはり建築課職員の姿勢に問題があったと考える。談合とは業界内部での不正手段であるが、そこに行政が絡むとなれば、それは官製談合へと変化する。その犯罪の恐ろしさを知らずして、より一層建築課は力を持っていくのであった。
設計料3.5%
飯田市の設計業務設計料は3.5%とされ、現場監理はいつしか建築課(地域計画課)の業務とされて分離されていた。建築課が監理しても行政としては通るが、それでは経済効果は半減するものだ。設計料を3.5に決めることが官製談合なのだが、それが不正だとの意識が地域計画課に無い。また、地域計画課が監理をするのは、綿半の建材を確定するためであった。設計図面には一般の材料名が記されるが、綿半が建設業者に「これはうちの商品だ」と営業すれば、建設業者はそれを受け入れる。これが綿半と地域計画課の癒着であった。令和5年1月28日
バックマージン
綿半から鈴木設計事務所に流れる金は、毎年2千万円を超えており、その大半を大沢社長と伊藤前社長が受け取っていた。
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